人間いつかは死ぬけれど、いったいどうやって生きるのが一番いいのかって悩むよね・・・。
もし、このブログを読んでくれている方がいるとしたら、あなたにとって「最高の生き方・最高の死に方」ってなんですか?
死について考えてみる。
いきなり重いテーマでびっくりされたかもしれません💧
でも、生きているということは、いつか死ぬということと同義で、人生をどう生きるか?ということを考える上で避けて通れないと思うんです。
最近、見た映画でそのテーマを扱う作品に触れる機会が多かったので、今日は自分なりに日記としていろいろ考えてみたいと思いました。
「死ぬこと」ってなんだろう。
幼い頃は、ただただ毎日が楽しくて死ぬのが怖かった記憶があります。
そもそも、考えることすら怖かった。
死という概念そのものよりも、自分の「意識」が消え去って、「自分」という存在がなくなることがすごく怖かったです。
叱られて家の外に追い出されたあの日、
家を飛び出して、あてもなくさまよって深夜を迎えた幼い日、
忍び寄る闇のような世界に、自分が消える恐怖を感じていました。
でも、そこから大人になるにつれて生きることがつらい日も増え、生が絶対で死が悪のような考えはちょっと違うような気がしていきました。
死を考えることは今生きることを否定することではなく、むしろ人が生きていくうえですごく大切なことなんじゃないかって。
死ぬことはどうやっても、生きているうちには体験できないけれど、それを考えることで「生きる」ことを深く考えることができる気がするんです。
「それなら一体どのように生きればいいのか?」という問いはずっと持っていて、
たとえば、ある人は「いずれ死ぬのだから今何をしても無意味だ」と言い、
また、ある人は「いずれ死ぬのだから、今やりたいことを全部やるべきだ」と言い、
そのまたある人は、「いずれ死ぬのだから、その時のために備えるべきだ」と言います。
そのどれも僕は正しいように思います。
ただ、一方でそのどれもが自分を縛るものだとも感じています。
そこで、今日はそのことについてじっくり考えてみたいと思います。
1死の先を想う
「いずれ死ぬから、今何をしても無意味だ」
と考えることは、確かに「死後の世界がない」という観点(おそらくこれは正しいのかもしれません。証明はいずれにせよできませんが、僕はこの考えに近いです)から見れば、将来的には大金持ちになろうが、絶世の美男美女と結婚しようが、歴史に名を残そうが、「それ」を認識する自分という存在がいなくなる以上、すべて無意味です。
まるで食べ物と同じように、食べている時は幸せでも、食べて消化してしまえばその幸福は終わる。
何かやるときは幸福でも、時が過ぎればそれは「今はない」に等しい。
子孫を残しても、財産を残しても、名を残しても、世界がどんなに騒いでも、
「それ」を認識する自分が永遠にいなくなるのなら、それは「ない」も同じこと。
それだったら、もう何もせずに、ただ「その時」までいればいいんじゃないか、と。
これも一つの生き方としてアリだと思うし、何も否定できません。
ただ、この生き方は未来を見た生き方ですが、今を見た生き方ではなく、今がつらいものとなりがちです。
無意味だから、すべてむなしいと。
でも、先を考えて今がつらい、というのは本末転倒ですよね。なぜなら、人間はどうあがいても「今この時」しか生きていないからです。
「今この時」しか生きられないのに、「先」を考えて今を生きられないのは、つらいこと。
それなら、逆に「いずれ死ぬのだから、今やりたいこと全部やる」生き方はどうでしょう。
2今に生きる
次に思うのは、「いずれ消えるのだから、今のうちにやりたいことを全部やる!」という生き方です。
僕はどちらかと言えば、この生き方が好きです。
いずれ消えるなら、もはや何の遠慮もなく「今」に生きることができる。
とにかくやりたいことを全部リストアップして、やれるだけやっていく。
そして、その時が来たら、「これだけやったのだから、思い残すことはない」と思いながら死んでいく。
ジャックニコルソン&モーガンフリーマンの二人が演じた「最高の人生の見つけ方」という映画は、まさにこの生き方を最後に実現したような気がしています。
死が怖い、という点にとっても、それを考える暇がないくらい今に没頭できるという点ですごくいいと思います。
結局、「死」というのは目に映る世界にとっては事実でも、自分にとっては(自分が経験した時には存在しない以上)想像でしかないのだから、妄想するのなら、楽しいことを。妄想する暇がないくらい今を楽しむ、という生き方です。
ただし、この生き方にも難点があるように思います。
これは僕自身が経験したからこそなのですが、
人生でやりたいことをリストアップしてやっていくことは、それをこなすこと自体が目的となってしまい、まるで「課題」に追われるような人生になってしまう可能性がある、ということです。
最初は本当にやりたいことだった。
でも、一つずつやっていくうちに、いつの間にか
「あれもやりたい。これもやりたい」とやりたいことに毎日追われるようになっていき、
「これをやらずに死ねない」とさらに生を求めたり、その目標に縛られるようになってしまう。
そして課題をこなしているうちに、あっという間に人生が終わる。
その時に「あれ?本当にやりたかったことってこれだったっけ?」と思ってしまう。
あるいは「やりたいこと全部やった」と言い切って終わるはずだったのに、「まだあれもこれもしたりない」と想い悔やみながら終わってしまう。
そういう意味で、ただ単純に「死ぬからこそ、やりたいこと全部しよう」という考え方に没入すればいい、とは単純には他人に言えなくなりました。
「今やりたいことをする。ただ、それに囚われるとつらくなる」
やっぱり、すべてはバランスなのかもって思います。
3未来に備えるために生きる
未来に備える生き方はどうでしょう。
これは、死ぬときに後悔しない、という意味だと↑の生き方と重なります。
ただ、「備える」という意味で未来のために生きる以上、「今が良ければ先はいい」という見方が除外されるため、そういう意味ではより慎重な生き方とも言えます。
ただし、こちらも未来に備えることに一生懸命になりすぎたゆえに、今を生きられず、老いた後に「あれをしておけばよかった」と後悔する可能性もあります。
必要なのは、まさに「明日死ぬと思って生きよ。だが、永遠に生きると思って学べ」の精神かもしれません。
死後の世界に備える、という意味だと、
死後の世界については、まったく分からない世界のため、神を信じるか、それとも無神論を信じるかは
ポリシー次第とも言えます。
ただ、未来に備える生き方もいずれにせよ、未来のその時点から今を見た生き方なのは変わりませんよね。
そういう意味では、「過去に生きる生き方」ともいえるかもしれません。
うーん。難しい・・・。
4死を想う
結局、一番最高の生き方・最高の死に方ってなんなんだろう、という問いは
「人それぞれ」と言われればその通りだから、反論の余地なしなのですが、
少なくとも、今の自分は以下のように考えたいと思っています。
将来、確実に死ぬ。
だからこそ、余計な遠慮をしなくてよいという救いになりえる。
「最後があること」からこそ、不必要に現実を恐れる必要はないということ。
同時に、今この時点で生きているのだから、「今を生きる」ために「今やりたいこと」をやっていきたい。
同時Tに「最後」を想うからこそ、そのやりたいことに優先順位をつけてやっていきたい。
単純に時間を浪費することなく、心からやりたいことを考え、行動していく。
それは、今この時を充実させてくれて、結果的に「生」を活かしてくれることにつながる。
最後だからこそ、全力でやれるのだということを教えてくれる。
将来的に、人生で何を成していても、成せていなくてもいい。
名を残さなくていいし、こだわることなど何もない。
ただ、死の先を恐れることなく、
だからこそ、生に囚われることもなく、
ある時は目標を作り、それにまい進し、
またある時は足を止めて、ゆっくりと日常の風景を楽しみ、
そして、その時が来たら、笑ってそれを受け入れる。
「いつか死ぬ。でも、それでいい。それがいい」
ゆっくり行こう。
なんか詩みたいになりましたが、パッと思いついた言葉を書いてみると今の気持ちはこんな感じなのかなと。
その時に本当に笑えるかは分かりませんが、そう考えると心がすっと軽くなるような気がします。
怒りも嫉妬も悩みすらも、すべてはいずれ「無に帰す」と考えると救われるような気がするんです。
逆に喜びや楽しみという感情も、「最後」だからこそ、思い切り感じることができる気がします。
人間、いつの時も姿かたちも、心も考えも変わるものだから、この先どう思っているかは分からないけれど・・・、ただ、今の僕はそれでいいかなって思っていることをここに残しておきたいのです。
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